eNの住人、と書いたモノの、eNは僕一人しかいない。なので、ここは自己紹介とさせて頂きます。 色々と思い出しながら書き出して感じることは、自分一人で成し遂げた事なんてかなくて 本当に色々な方に助けて頂いたんだなあ、ということ。感謝の心を込めて書きました。 まあ、ちょっと変わった面白い話、だとは思います、お付き合いください。 |
1957年/昭和32年 世界大戦時に南方で衛生兵だった父が復員し、薬剤師として横浜の六角橋にて薬局を開業。2月8日この六角橋の地で次男坊として産まれる。
大二という名前、実は僕が未熟児寸前でとても小さかったので、大きく育て!の想いを込めて、だそうな。そして次男なので二の字。 命名した紙を親戚に送ったそうなのだが、父の字はとても個性的で、 なおかつ墨汁を多く吸い込んだ筆が勢い余り「大」に「、」が着地し “犬二”に。 親戚の者等は“真一さん、変わった名前を付けられましたな” と話題になったそうだ。 |
|
僕の母は美人だった。子供ながらにそれが自慢。 戦後、女はみな苦労したと思う。 男社会の中で人間としての自由はなく、お金も物もなく・・・ 母が嫁いだ父の家、大ばあちゃん、ばあちゃん、 そして男ばかり3人の父の弟たち。男4人とも飲ん兵衛。 着物を質に入れて得たわずかなお金も、酒代に消える日々だと。 でも、いつも明るく楽しいことが大好きな人だ。 ただ、残念な事に、僕自身は父に瓜二つ。 |
1963年/昭和38年 私立武相小学校入学。昔野球が強かった、出川哲朗が卒業した
武相高校の小学校。私立といっても、田舎の分校よろしく、 全校生徒数は100人に満たなかったところで、僕が卒業後 数年で廃校になってしまった。 でも、いつもビンタを喰らわす大好きな先生がいた。 授業はいつも熱心で、そして脱線もした。 放課後先生は教室で酒を呑んでいて、その酒の肴は僕らだった。 僕と数人の生徒の帰りが遅くなり、そのまま学校に泊めてくれた。 (この話は今では神話だ。)怖い話をしてくれた。 ジョーク混じりの授業は天下一品。そしていつもビンタを喰らった。 ビンタを喰らう僕らはなぜビンタされているかを知っていた。 嘘をついたから、偏見や差別をしたから、 正義からはずれていたから、だ。 先生、毎日のようにビンタを喰らわしてくれてありがとう。 僕らに母校はないけど、先生の笑い声とビンタの傷みは僕らの 宝物としてずっと生き続けます。先生、いつまでもお元気で。 |
|
1969年/昭和44年 横浜市立六角橋中学校入学。
この時、まだまだ小さい。大きくなりたくて バレー部に入部するも、ジャンプしてもネットから手が出ない。 よって先生からバックセンタ−を拝命。 そう、まだ9人制だったのです。 翌年、6人制となり、ネットから手が出ない僕は補欠。 1972年/昭和47年
逗子開成高校入学。
兄と姉がいたので、中学の時からいつも音楽を聴いていた。 ビートルズが好きだったな。 で、高校になって、ロックとフォークに夢中になる。 ギターも本格的に練習したし、バンドも組んだ。 とにかく音楽の思い出しかない。当然、勉強なんかしないし、 成績も下がる一方。 放任主義の母もさすがに“これ以上成績下がったらギター捨てるぞ!” と脅かされた。 だから、大学受験するもどこも受からず、浪人に。 |
|
1976年/昭和51年
関東学院大学文学部入学。
なんとか大学に。でも学校なんていつもさぼってた。 音楽はもちろん打ち込んではいたが、 それ以外にとんでもない事を始めてしまった。 なんと、高校の時の親友と“ロック居酒屋”を始めた。 経営者は僕の友人で僕自身はアルバイト扱いだが・・・。 そして20歳の時に、ロックバンド「WHOTA」結成。 中学高校の同級生を中心にメンバーを集めた。 勧誘文句は“バンドやると女にもてるぜ!” そうそう、動機が不純なのだ。 で、今なお、女にもてる、という目的が達成できず、 今年で結成42年目を迎える現役親父バンドである。 |
||
1980年/昭和55年
子供の教材・レコード付きの絵本をつくっていた 「アカデミー出版」入社。 デザインなんて何にも知らない僕だったが、 絵本作家になりたくて受けたら運良く採用。 ここでの学びは大きかった。取材、撮影、レコーディング、 レイアウト、割付、編集・・・ 編集出版のいろはを全部やらせてもらった。 社長が有名人が好きで、石坂浩二さん、音楽家の芥川也寸志さん、 水森アドさんなどとのお仕事は面白かった。 |
||
一番印象に残っているのはアントニオ猪木さんに、
絵本の原稿を読んでもらったこと。 猪木さんは、つっかえる度に“ちきしょう!”を 連発していたな。 正直一番大変なレコーディングだったけど、 猪木さんは優しかった。 がしかし、僕はこの会社で失敗を繰り返す。 誤字脱字、だ。 出版にあたって、このミスはあってはならないコト。 上司がやさしくフォローしてくれるが、 ミスはなくならない。 さすがに自分が嫌になって退職。 根性もない。 |
||
会社を辞めた後、僕はアルバイトをしていた。
そのころ僕は「センチメンタルシティロマンス」という、 名古屋のロックバンドのファンクラブに入っていた。 無名なバンドだったが実力のあるバンドで、 細野晴臣さんがプロデュースしたり、あの竹内マリアさんを輩出したバンドなのだ。 で、センチ(このバンドの愛称)のマネージャーと お話する機会があり“一緒にツアーの旅がしたい”とお願いしたらロードマネージャーとして雇ってくれることになった。名古屋への移住だ。 そこで名古屋暮らしのために、アルバイトのお金をせっせと貯めていた。ところが、お金がやっと溜まった時にセンチのマネージャーから一本の電話。“早川君、うちの事務所、お金がでないので雇えない” →当然僕は意気消沈。 “でも、センチは加藤登紀子のバックバンドずっとやっていて、そのお登紀さんがスタッフ募集している。俺から連絡しておくから、そっちを受けてみたら・・・そこで雇ってもらえれば一緒にツアー行けるから” →当然僕は意気揚々。 そしてとある冬の日、代々木のお登紀さんの事務所へ面接に。 始めは筆記試験。筆記試験の内容がご機嫌で、あなたはお酒をどれくらい呑みますか? だってさ。 さすが酔いどれお登紀さん。で、いよいよ面接。僕が最後。 みなさん10分くらいの面接なのに、最後という事もあって僕は1時間くらいお話しさせてもらった。お登紀さん、とても気さくな人で、僕の下らない話に相槌うって、笑ってくれた。僕は、完全に受かった、と思いながらルンルンしてその場を去ったのだ。 後日、お登紀さんのマネージャーから電話が来る。 “早川君、残念だけど君は落とさせてもらった” →当然僕は意気消沈。 “そうですか、それはし方ないけど、落ちた理由を聞かせてもらえませんか?” そう尋ねると、マネージャーは“お登紀さんが言ってたんだ、あの子は自分で何かやる子だよ、って”と。 そうだったんだ、僕は自分で何かやる人間なんだ!! お登紀さん、ありがとう! 僕の背中を押してくれて。 お登紀さん、ありがとう! 僕は独立してみるよ。 こうして僕の人生はお登紀さんの一言で180度変わったのだ。 |
1982年/昭和57年 企画デザイン事務所「シティプランニング」設立。
独立資金もなかったので、友達2人をそそのかして一緒に始めたデザイン会社。 儲かりはしなかったけど、忙しくて楽しい時間を過ごした。 仕事の合間にパーティの企画ばかりしていた。 横浜港の氷川丸でクリスマスパーティを企画して100人くらい集めた時は 地元テレビのTVKが取材に来るとか来ないとかで 騒がしかったのを覚えちょります。 7年間頑張るも、これ以上の成長も見込めず、 生活も苦しかったので責任者交代で僕は退職した。 まあ、計画も甘く曖昧で相変わらず根性もなかったのだ。 |
|
1988年/昭和63年 吉祥寺は印刷会社のデザイン部門で企画デザインを改めて学び直す。
この職場で会援隊メンバーの真柴新一郎と出会う。 真柴さんには本当にお世話になった。企画を教えてくれたし、 酒の呑み方も、本の面白さも教えてくれた大恩人なのです。 そして、この時に担当したクライアントが、 住宅産業のダイレクトマーケティング会社。 そしてこの先の話が 「七転八起」のページにつながるのでありました。 まあ、このころまでの約30年、今の僕の歳の半分で、 この後から住宅産業にどっぷりつかる人生となるのでした。 楽しくて馬鹿で、元気でお調子者で、若くて失敗して、 そんな足跡です。 そんな僕の足跡がいまもこうしてつながっているのは 親兄弟、先輩、仲間、家族・・・みんなのおかげなんですね。 嗚呼、活かされてます。 |